向こう隣のラブキッズ


第1話 かわいいキッズは用心棒!


7時5分前。家の古い柱時計がカチッと小さな音を立てた。もうとっぷりと日も暮れた。家では夕食も済んだ。普通ならここで、のんびり家族団欒が始まる頃だ。が、女の子は階段を駆け上がると急いで子ども部屋に飛び込んだ。あと3分ほどで好きだったアニメが始まる。しかし、この部屋の住人である日比野しおりの心を占めているのはそんなことではなかった。
「来た」
隣の部屋に明かりがついた。その窓越しに制服姿の彼が見える。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
ガラリと窓を開けてしおりは言った。
「やあ、しおりちゃん」
向こうの窓も開いて彼もあいさつした。涼やかな笑顔。ぱっちりとした瞳。額にかかる前髪は先端だけかかったウェーブがセクシーだ。色白でふくっとした頬に唇の山がはっきりしている。女の子なら美少女コンテストに出て優勝間違いなしの見立てだ。彼が着れば制服でさえも魅力的な輝きを増す。しおりは心の中でつぶやいた。
(あー、なんて素敵! 彼に比べたら、テレビに出ているアイドルなんてジャリタレのハナタレ小僧にしか見えやしない。ああ、いつまでもそうやってわたしだけを見つめていて……)

そんな彼女の憧れの人、愛川姫乃は中学3年生。対して日比野しおりは小学5年生。丈夫過ぎた赤いランドセルは背中にしょわれて未だ現役。しおりは頬に手を当て、大人のようにふーっとため息をついた。
(あーあ。どうして二人の間には年齢という大きな隔たりがあるの? 来年には、お兄ちゃんは高校生。なのに、しおりはまだ小学生。理不尽すぎよ!)
それを思う度、しおりは人生に憤りを覚えた。
(二人はこんなにも近い距離にいて、運命だって感じちゃってるのに……)
彼らの家は隣同士。5年前、しおり達の一家が引っ越してきてからずっと、二人は兄妹のように仲良しだった。姫乃は引っ越してきたばかりのしおりにとても親切にしてくれた。しおりが小学1年生の時、姫乃は5年生で通学班の班長だった。先頭に立ってみんなを誘導してくれるやさしいお兄さんだったのだ。しかし、2年後、姫乃は中学生になり、二人は別々の学校になってしまった。そして、来年、しおりは中学生になるが、姫乃は高校生。憧れのお兄さんは彼女の知らない場所で一日の大半の時間を過ごしている。そう思うとしおりは胸がきゅんと締め付けられるのだ。
が、幸いだったのは二人の家が隣同士であるということだった。しかも、彼らの部屋は共に2階にあり、下にはブロック塀の境界があるものの、窓を開ければお互いに手が届く程近い。

「お兄ちゃん、今日もまた図書室に行っていたの?」
しおりが訊いた。
「うん。ちょっと調べ物があったから……。新しい小説の資料なんだ」

身体の弱い彼はスポーツより文化や芸術方面に才能があった。礼儀正しい優等生の彼は近所でも評判が良かった。現に彼に憧れている少女は大勢いたし、しおりも当然そんな彼のファンだった。姫乃は去年、雑誌の文芸コンクールで入賞したことがあり、今は受験勉強の傍ら、こっそり小説も書いていた。出来上がった原稿は、束ねてファンの少女達が回覧した。得意なジャンルは恋愛もの。ロマンティックで切ない作品が多かった。それがまた、彼の憂いを秘めた雰囲気と重なって少女達から人気があった。
「今はどんな小説を書いてるの?」
しおりが訊いた。
「薄幸な少女と主治医のお医者さんとの恋だよ。彼女は病気であと少ししか生きられないんだ。それで、彼は寝る間も惜しんで新しい薬を開発するんだよ。でも、やっとその薬ができた時には彼女は死んでしまうんだ。それで、彼もそれを悲しんで自ら危険な新薬の実験に参加して……結局、彼も死んでしまうんだ」
熱を帯びて語る彼の瞳が震える。

「何てかわいそうなお話………」
聞いていたしおりも涙を流した。
「そうでしょう? この話を思いついた時、僕も悲しくて、ごはんが喉を通らなかったんだ」
そう言うと、姫乃はしおりの手を握って泣いた。
「姫乃お兄ちゃんは天才だわ。きっとシェイクスピアみたいに世界中で愛される作家になれると思う」
しおりは大きな瞳を潤ませて言った。
「ありがとう。しおりちゃん。僕の才能をわかってくれて……」
姫乃はうれしそうに微笑する。その表情でさえ儚く見えた。
「わたし、きっとお兄ちゃんを信じてるわ。そして、きっと守ってあげる」
しおりが言った。

確かに姫乃の外見に惚れて近づいて来る少女達はたくさんいた。しかし、彼の文才をわかっている者はいない。
(お兄ちゃんの周りにいるのは、顔ばっか褒めてるミーハーな奴ばかりなんだもの)
しおりはそう思っていた。
(だから、わたしがしっかり見張らなくちゃ。お兄ちゃんはやさしいから誰にでも甘い顔しちゃうけど、女のせいで身を滅ぼすって事だってあるし……)
しおりは固く決意するのだった。


そんなしおりにも本当の兄弟がいた。1才下の歩(あゆみ)だ。彼は下の居間でゆっくりアニメを楽しんでから、スナック菓子の袋を抱えてしおりの向かいの部屋に入って行った。バチッと電気をつけると、まず窓の向こうの隣の部屋を見た。が、まだその部屋は暗いままだった。
「ちぇっ。今日は遅いのか」
彼は恐竜型の目覚まし時計の針をじっと睨んだ。7時28分。心なしか恐竜は不機嫌そうな顔をしていた。歩は散らかった机の上に菓子の袋を置くと、作りかけのプラモデルの箱の中から部品を摘んだ。しかし、何となく気分が乗らない。彼はマンガ本を開いてみた。いきなり女の子のデフォルメされた胸の膨らみが目に飛び込んだ。一瞬だけ瞳孔が広がり、心臓がトクンと鳴った。が、隣の家の玄関が開く音が聞こえると、マンガのそれを見た時よりも自分の中で鼓動が大きく響くのを感じた。
「帰って来たんだ」
歩はパタンと本を閉じるとその辺に放り投げた。そして、急いで窓の側へ寄る。住宅が並ぶ町内では、こちら側にも近い位置に隣の家が建っていた。やはり向かいに窓があり、しおりの所と同じような光景が広がっていた。こちらの住人は女子大生だ。去年はミス・キャンパスにも選ばれた美女で、歩の憧れの人、雪野さくらである。

「うーん。さくらお姉ちゃん遅いな」
歩はフェンスに膝を乗せて彼女が階段を上って来るのを待った。階下でさくらが母親と何かしら会話しているのが聞こえた。盗み聞きなんて趣味が悪いと思ったが、避けようにも窓を開ければ聞こえてしまう距離だった。しばらく女達の他愛無い話が続き、ようやく彼女が階段を上がって来た。そして、部屋に入ると明かりをつけた。
「さくらお姉ちゃん、お帰りなさい」
すかさず歩が窓を開いて言った。あくまで自然な感じにだ。
「あら、歩君、もうアニメは終わったの?」
「うん。丁度終わって上に来たとこ」
「そう」
彼女はにこにこと返事する。
「お姉ちゃん、ぼくね、今日、リコーダーのリーダーになったんだ」
「ま、すごい! さすが歩君ね。リコーダー、お姉さんも教えてもらおうかな?」
「え? お姉ちゃんは上手でしょう? ぼく、お姉ちゃんに教えてもらったんだよ。ほら、3年生の時、なかなか上手に吹けなくて泣いてたぼくを励ましてくれたじゃない」
「え? そうだっけ? でも、もう今は吹けないかも。リコーダーなんてもう随分吹いていないもの」
さくらが軽く髪を掻き上げると、さらさらと指の隙間から流れる髪の1本1本にも光を感じて歩はドキドキした。

「ところでこの間のプラモデルは完成したの?」
「え? ああ、あの帆船のやつ……」
彼は何気なく机の上を見た。作りかけの船の舳先が突き出たまま箱は半分落ちかけていた。さっき投げたマンガ本が箱を押し退けたのだ。更にその上にスナックの袋が乗りかかっている。
「完成したら見せてくれるって言うから、とっても楽しみにしてるんだけど……。私、帆船って好きなのよね」
お姉さんの形のいい爪が長い髪の隙間から覗いている。小さな襟の付いた赤いシャツに薄い羽のような上着。光沢のある唇が物を言う度、胸が振動して飾りのチェーンが微かに揺れる。歩はそんな彼女の胸の辺りに視線が留まると、自分の中でも何かが大きく震えるのを感じた。
「帆船が好き? なら、これ、出来たらさくらお姉ちゃんにあげる」
歩が言った。
「え? でも、いいの? それってしおりちゃんに頼まれてたんじゃないの?」
「いいんだよ。しおりなんかにやったってどうせすぐ壊しちまうんだから……。ぼくはさくらお姉ちゃんに持っていて欲しいんだ。そうしたらいつだってお姉ちゃんといっしょにいられるもん」
「そう? なら、部屋の1番よく見える場所に飾るね」
「うん。それじゃ決まり!」
歩はうれしそうに笑った。
「ありがとう。楽しみにしてるね」
さくらも笑った。

「ところでさ、お姉ちゃん、もう変な奴らに絡まれたりしない?」
歩が訊いた。
「え? ええ……」
彼女は普通に街を歩いていてもかなり目立った。芸能界に入らないかとかモデルにならないかなんてよく声を掛けられるらしい。
「そんな話に、絶対乗っちゃだめだよ! そんなのはたいてい悪い奴なんだ。エッチなビデオを作るとか……」
「ふふ。歩君ってばまるで保護者みたいね」
彼女は笑ったが歩は本気だった。
「もう、笑わないでよ。ぼくはお姉ちゃんのことが心配なんだ。世の中悪い人が溢れてるんだよ。お姉ちゃんは美人で人がいいから悪い大人に騙されやしないかと思うと、ぼくはとっても心配なんだ」
「そうね。気をつける」
「何かあったら必ずぼくに言うんだよ。そしたら、絶対ぼくが助けに行くからね。どんなに離れていてもきっと助けに行くから……」
歩は真剣に言った。
「わかった」
さくらも真剣にうなずいた。

そうして、二人のキッズの楽しい時間は過ぎて行った。
(あーあ。どうして時間ってこんなに早く過ぎちゃうんだろ? もっとずっと話していたいのに……)
いつも誰かしらの呼ぶ声で楽しい会話は遮られた。
「しおりちゃーん、歩くーん、降りておいで。駅前のケーキ屋さんで二人の大好きなショートケーキ買ってきたよ」
陽気な声でお父さんが呼んだ。

「もう、お父さんってば、いつまでもケーキっていえば子どもが喜ぶと思ってるんだから……」
自分はもうそんなに子どもじゃないと言いたげに、いかにも不満そうな口調で言うしおりに姫乃は笑って言った。
「お父さんだってきっと寂しいんだよ」
「うーん。姫乃お兄ちゃんが言うなら……」
しおりは渋々言った。が、心は半分ショートケーキに傾いている。

「もう、いやだな。夜は甘ったるいのは食べないって知ってるのにさ」
唇を尖らせて歩も言った。
「どうして? ダイエットってことでもないでしょう? それに、わたし、少しぽっちゃりしているタイプの男の子の方が好き!」
「え? そうなの? なら、ぼくやっぱりケーキ食べて来ようっと」
理由ができて歩はうれしそうに言った。
そうして、二人のキッズは正当な理由の下に夜食のケーキをパクついたのである。


次の日は土曜日で学校は半日だった。午後、しおりは本屋に行き、歩は公園でサッカーの練習をした。しおりは愛読している雑誌の発売日だからといそいそと出かけたし、歩はもうすぐレギュラーになれるかもしれないからと言って練習に余念がなかった。しかし、その本屋はいつも学校帰りの姫乃が立ち寄る店だったし、歩はその公園の脇をいつもさくらが通る時間を知っていた。つまりどちらも趣味と実用を兼ねていたのである。

結果、いつものように雑誌を立ち読みしていると姫乃が店に入って来た。
(来た)
すかさず声を掛けようと側に行こうとしたしおりだったが、その前に誰かが彼に声を掛けた。二人の少年は制服を着ていたが、髪を逆立て、上着を引っかけただけのだらしなさで、のしいかのように平たくなった鞄を持っていた。そして、もう一人の少年は私服だったが、派手な色のシャツを着て、ボタンを外している。その3人に囲まれて姫乃は困惑していた。

「あれ? 姫乃ちゃん、約束破っちゃっていやだなあ」
「おれ達ずっと校門の所で待っていたんだよ」
「待ってたって……僕はあなた達と約束した覚えなんてありませんけど……」
姫乃が言った。だが、彼らは彼の答えなど聞いてなどいなかった。
「可愛い顔して、案外忘れっぽいんだね」
「ここじゃなんだからちょっと外へ出ようか」
「そうそう。きっと思い出すと思うよ」
「やめてください。僕は……」
いやがる彼の襟を掴んで強引に連れ出そうとしている。周囲には大勢の人がいたが、誰も何も言おうとしない。そこからそっと離れる人。ひたすら気がつかない振りをして本に視線を落としている人。お店の人でさえレジで並んでいた客の会計が済んでしまうと棚から伝票を取り出してパラパラめくる振りをする。みんな厄介なことには関わりたくないのだ。

(誰もお兄ちゃんを助けてくれない……)
しおりは大人に対して失望した。都合の悪いことは見て見ない振りをする彼ら。
(前にもあった。引ったくりにあったおばあさんを周りにいた人は誰も助けようとしなかった。怖いのはわかるけど……。わたしだって怖いけど……。もう、うんざりだ!)
その間にも姫乃は外に連れ出され、人目のつかない路地に消えた。
(あいつら、許さない!)
しおりは急いで本屋を出ると姫乃が連れ込まれた路地へ向かった。
「けっ! こいつ、まだ何もしてねえうちにのびちまったぜ」
柄の悪い私服の男がブロック塀にもたれて気を失っている姫乃を蹴った。が、彼はぴくりとも動かない。
(お兄ちゃん……!)
しおりは心配のあまり生きた心地がしなかった。
「へへへ、ほんと、だらしのねえ奴だぜ」
「こんなんじゃパシリにもなりゃしねえ」
そう言うと少年達はげらげらと笑った。

(許せない……!)

しおりはその路地の入り口に立つと叫んだ。
「あんたら、地獄を見るよ!」
少女の背後で風が渦巻く。
「へ? 何だって? お嬢ちゃん」
「おれ達、何もしてないぜ」
「そうそう。こいつが勝手に怯えて逃げようなんてするから、そこの角で転んじゃって……」
「姫乃ちゃんって臆病者の弱虫なのよぉ」
少年達は下卑た笑い方をした。
「そんな事、だれが信じると思うの? お兄ちゃんを悪く言うと許さないからね!」
しおりが言うと彼らはまた大笑いした。
「あはは。お兄ちゃんだってさ」
「今時、お兄ちゃんなんて一度は呼ばれてみたいねえ」
「おれ妹系って好き!」
馴れ馴れしく触れようとしたその手をしおりはぴしりと叩いて言った。
「おしおきされないとわからないようね」
しおりの目が釣り上がった。
「おしおきだって? 君みたいに可愛い子になら、ぼくちゃん喜んでおしおきされたーい」
へらへらと迫って来たしまりのないその顔面に彼女は思い切り拳を叩き込んだ。
「うげっ!」
不意を突かれてそいつは鼻を押さえてしゃがみ込んだ。抑えた指の隙間から鼻血が垂れる。

「て、てめえ! ガキのくせしやがって!」
「悪い子はお尻ペンペンしちゃうぞ」
制服の二人が左右から襲い掛かる。
「あんた達、まだわかってないようだね。そんなにおしおきが好きなら、とっととその汚ねえ尻でも出しな! 何なら顔でもいいよ。汚さは変わらないだろうからね」
しおりは男達のすねを蹴り、勢いよく拳を胸や腹に叩き込んだ。その細い腕を振り上げる度、しゅっと風を切る音がした。
「うぐっ!」
「ぐへっ!」
その強さたるやまともに食らえば大の男でさえノックアウトしそうな強烈なパンチだった。しかもダメージを受けてしゃがみ込んでも容赦がない。可愛いキャラクターの運動靴の先端に何か仕込んででもいるのかと思うほど、蹴りを食らえば、あまりの痛みに目がチカチカした。1分もしないうちに彼らは路地に重なり合って倒れた。

「そうそうお尻ペンペンだったね」
そう言うと少女は風を切る勢いで彼らのお尻を蹴り上げた。
「手で叩いたんじゃわたしの手が汚れちゃうもん。あんたらの仕上げにはこれで十分だよね?」
彼らはひいひい言いながら、目を白黒させていた。
「これに懲りたら、もう二度とお兄ちゃんに手を出さないことだね!」
しおりはそう言い捨てると倒れている姫乃の所に駆けつけた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
そっと揺すると目を開けた。
「よかった。お兄ちゃん、怪我はない?」
「ああ。しおりちゃん、来てくれたの? でも、危ないよ、早く逃げないと君までひどい目に合ってしまうよ」
「平気。もう彼らはお兄ちゃんには手を出せなくしたから……。さあ、早くおうちに帰りましょう」
姫乃は少しだけ怪訝そうな顔をした。が、路地の奥の暗がりに転がっている3人には気がつかない。
「ごめんね。しおりちゃんにまで怖い思いをさせて……。あの連中、どういう訳かいつも僕に絡んで来るんだよ。でも、今度来たらきっと僕がしおりちゃんのことを守ってあげるから、心配しないで」
「うん。ありがとう、姫乃お兄ちゃん……」
二人はじっと見つめ合うと仲良く手を繋いで家路を急いだ。


その頃。公園では練習を終えた歩がボールを蹴りながら花壇に沿って出口へと向かっていた。花壇の向こうには1メートルほどのフェンスがあって外は歩道になっている。その歩道は普通よりゆったりしているので人が並んで歩いても余裕があった。しかし、その歩道いっぱいに広がって3人の目つきの悪い男達がひそひそと話しているのが聞こえた。
「あいつはどうだい?」
一人が顎をしゃくってみせた。
「ああ。いいねえ。すらりとした足のラインがたまらないぜ」
「見ろよ。あの胸元。こいつは最高の玉だぜ」
「おれはあの腰つきがたまらねえなあ」
滲み出るようないやらしさ。そして、彼らのターゲットにされているのは彼女だった。さくらが向かい側の歩道を歩いてこちらに向かって来るのが見える。

(お姉ちゃん……)
歩の胸は高鳴った。

「あいつをいただいちまおうぜ」
「まあ、待て。まだ人目がある」
「そんじゃあ、どうすんだよ。夜までなんかとても待てねえよ」
男達は何やら作戦を立てていた。
「何、夜まで待つ必要ないさ。こっちで夜を作っちまえばいいんだからよ」
「そうそう。人目のつかない場所なんていくらでもあるさ」
男達の忍び笑いが漏れて来る。

(畜生っ! あいつら……)

「おい、ガキに聞かれたんじゃねえか」
一人が歩を見て言った。彼は反対側を向いてボールを蹴っている。そのボールがあっちへ行ったりこっちへ来たりして翻弄されている。その度に少年は慌てて追いかける。それを見て、もう一人の男が言った。
「わかりゃしねえよ。ありゃ、ただのサッカー小僧さ。しかも全然ドリブルになってねえ。見ろよ、ボールに遊ばれてやがる。あんなんじゃボールを追うのが精一杯でとても人の話なんか聞いてる余裕はないさ」
「そうだな」
彼らが笑っていると、そのボールがこちらに転がり、慌てて追いかけて来る歩とすれ違った。
「よし。次に車が途切れたら向こうへ渡るぞ」
彼らの相談がまとまったようだ。そこで歩はボールを高く蹴って背中側へ転がした。つまり男達の進行方向へだ。そして彼はニッと笑って向きを変えると、急いでそのボールを追った。そして、彼らが道路を渡ろうと背を向けた時、歩は勢いよくボールを蹴った。風がゴーッと音を立て、ボールはカーブを描いてフェンスを越え、一人の男の後頭部を直撃した。
「げっ!」
その男は前のめりに倒れ込んだ。

「だ、大丈夫すか、兄貴?」
「一体何が……」
慌てる二人の前にサッカーボールが転がった。二人が振り向く。
「すみませーん。ボール取ってくれませんか?」
歩がのほほんとした声で言った。
「なに? てめえ、その前に謝れ!」
「そうだそうだ。てめえが蹴ったボールが兄貴の頭に当たっちまったんだぞ」
「めんごめんご。そいつは勘弁してくだせえ」
歩は言ったが、まるで心がこもっていない。

「何だ? その謝り方は?」
「だってしょうがないじゃん。おじさん達がそんなとこで悪い相談してたんだから……」
「何だって?」
男達が色めき立った。
「おれ、お姉ちゃんをいじめる奴は許さないことに決めてるんだ」
「お姉ちゃんだと?」
男達は笑った。
「何だ? てめえ、あの女の弟か?」
「違うよ。ぼくは彼女の用心棒さ」
「はは、笑わせんなよ。おめえが用心棒だって?」
「何なら試してみるかい?」
言うと歩は軽くフェンスを跳び越えて男達の前に立った。少年の周囲で風が唸りを上げている。そして、目にも止まらぬ速さで左の男にフックを叩き込むと前面の男を蹴り、右側の男にアッパーをお見舞いした。瞬間、骨が砕けるような音がして、3人の男達はその場に引っくり返った。子どもとは思えない力だ。

「これに懲りたらもう二度とお姉ちゃんに手を出そうなんてゲスな考え起こすんじゃねえぞ!」
歩は倒れた男達の手をスパイクで踏みつけた。彼らはひっと悲鳴を上げてうなずいた。
「そんじゃあボールを返してもらうよ」
そう言うと彼は歩道のへりに転がっていたボールを蹴って男達を跳び越えると、巧みなドリブルでさくらの方へ走って行った。
「さくらお姉ちゃん!」
彼が通りを渡って近づくと彼女もうれしそうに笑って近づいた。
「あら、歩君も今帰り?」
「うん」
「じゃ、一緒に帰りましょ?」
「うん」
そうして二人は並んで歩いて行った。反対側の歩道にはまだ3人の男達が倒れていたが、さくらはまるで気がつかない。二人は楽しそうに話しながら通り過ぎた。

そして、家に着く一つ前の通りの信号のところでしおり達に会った。
「何だ、みんな一緒だったんだね」
姫乃が言った。
「じゃ、一緒に帰りましょ」
さくらも言った。
「うん。お姉ちゃんと一緒なら……」
さくらの手を繋いで歩が言った。
「そうね。お兄ちゃんと一緒なら……」
しおりも言った。明るいオレンジの夕日がみんなの頬に反射している。それぞれの頬を染め、それぞれの手の温もりを感じながら歩く。日比野家のおませなキッズにとっては幸せな週末だった。